歴史の小箱
(第338号)源頼朝と三島(平成28年7月1日号)
郷土資料館では、企画展「源頼朝と伊豆」を七月十六日(土)から開催します。今回は市内に残る頼朝伝説の地を紹介します。
本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝は、十四歳から二十年間を流人として伊豆韮山の蛭ヶ島(伊豆の国市)で過ごしました。このため、伊豆半島には多くの頼朝の伝説が残っています。
頼朝は、平治の乱(一一五九)で父、義朝や兄たちを殺されたことも影響し、信仰心が厚く、般若心経を写経し各地の神社や寺院に奉納しました。法華寺(東本町)には経塚跡が残っています。
また、伊豆国一ノ宮である三嶋大社をことに大切にし、源氏再興のため百日祈願に通ったといわれています。治承四年(一一八〇)三嶋大社の祭礼日(八月十七日)に合わせて韮山で旗揚げした頼朝は、見事、源氏再興を果たしました。この後平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことに成功します。毎年盛大に催される三島夏まつり「頼
朝公旗揚げ行列」はこの故事によるものです。
頼朝は三嶋大社に感謝し、所領を寄進、社域を広げ神池を整備します。また下田街道を大社から南へ真っすぐに整備しました。大社の門前には大きな市がたち、この後、長く繁栄することとなります。
この百日祈願にかかわる伝説がほかにも残されています。途中、仮眠をとったのが、間眠(まどろみ)神社(東本町二丁目)にあった松の下の庵と伝わっています。この庵は後に周福寺(青木)として整備されました。そのころ頼朝を狙っていたのが大庭景親です。景親の妻が、頼朝暗殺を夫に思いとどまらせようと暗闇で待っていたところ、景親は誤って妻を切ってしまいました。この妻を弔うために建てられたとされているのが写真1の妻塚(さいづか・東本町一丁目)です。
写真1 『妻塚』(東本町1丁目)
また、中地区の伝説には、頼朝が大社に参拝した折、女が後をつけてきて何度も声をかけるので、頼朝がうるさいと女の片腕を刀で切ったところ、女は地蔵であったというものがあります。このときから地蔵の手がなくなり、「手無し地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
写真2は宗徳院(松本)に伝来する頼朝の木像です。いつ誰が制作し奉納したのかは不明です。ほかにも、この寺には頼朝の馬の爪跡が残るという石橋が近年までありました。
写真2 『源頼朝木像』(松本・宗徳院)
このような頼朝伝説は伊豆一円に残り、長く人々が頼朝を慕い続けていたことがわかります。
企画展「源頼朝と伊豆」では、伊豆に伝わる頼朝の伝説や史跡を九月二二日(木・祝)まで広く紹介しま
す。
【広報みしま 平成28年7月1日号掲載記事】
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