歴史の小箱
(第344号)100年前の中郷小―中郷村行政資料から― (平成29年1月1日号)
郷土資料館で所蔵している中郷村役場文書から、明治期の中郷小学校に関する資料を紹介します。
中郷地域は、昔から教育熱心なところで、江戸時代には中島の旭家塾、八反畑(はったばた)の後素義塾(ごそぎじゅく)、平田の榊家塾があり、多くの子弟を育成していました。明治六年(一八七三)には中郷学校が
八反畑に設立され、塾から新しい教育制度へ移行します。
明治十年(一八七七)七月に申請された「公立小学設立伺(うかがい)」には、梅名に「第三十二番小学
冨南(ふなん)学校」の名称で三人の教員、生徒数八十人、授業料一カ月一円六十銭、学校費用年間三七八
円の計画で学校設立を伺うというものです。費用の内訳は、一七九円が旧草高(くさだか)金(米の収穫
総高)から、一七九円は戸数割り、一九円は授業料などです。
その後の経緯はわかっていませんが、実際の学校名を「公立小学成徳舎(せいとくしゃ)」とし、現在の中郷小学校の土地に建設されています。
▲公立小学設立伺
明治一五年(一八八二)二月の「君沢郡第二番組合連合会決議書」を見ると、「公立小学成徳舎維持費」として八八二円七四銭が予算計上されています。内訳は、六百円が教師給料(七人の教員・講師)、六十円が学務委員給料、三六円が小使(こづかい)の給料、六十円が炭・薪・石油などとなっており、別予算として「成徳舎松本分校」の維持費八三円や学校修理費が計上されています。
また、学区の諸費収入として一〇七二円が計上されています。当時としては大金です。どのように賄われたのでしょうか。まず戸数割一六八円は四八六戸で各三六銭、地価割りで八六二円、生徒の月謝収入四十円八六銭(月謝・初級一銭~中等一級五銭)などが主な収入で、住民の負担は大きなものでした。
明治二十年(一八八七)八月まで成徳学校(舎)でしたが、その後、梅名尋常小学校、明治二二年(一八八九)十二月に中郷尋常小学校と改称されています。明治二三年(一八九〇)に校舎が焼失したため、民家を移
築して校舎としていましたが、明治二六年(一八九三)十一月に新校舎が落成しています。
この建設費用を戸数割で徴収している徴収簿(明治二三年)が残っています。三九九人から合計二百円を集め、五円から五銭まで、収入の多寡(たか)により徴収額が細かく分かれていました。現金収入の少ない農家が、五十銭や一円を支出するのは大変なことでしたが、数日の間に集金されているところを見ると、中郷村の人々の子どもたちへの教育にかける思いが伝わってきます。
▲中郷学校建設費戸数割徴収簿
【参考】明治二十年当時の米価、米一俵・六十キログラムが一円四六銭
【広報みしま 平成29年1月1日号掲載記事】
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