歴史の小箱
(第346号)三ツ谷新田の松雲寺(しょううんじ) (平成29年3月1日号)
今回は三ツ谷新田と大名や天皇の休息所になった松雲寺について紹介します。
三ツ谷新田は、箱根西坂に点在する五つの新田集落の中央に位置しています。村の成立は、江戸時代のはじめごろと伝えられています。その名について、寛政十二年(一八〇〇)成立の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)
』の「三ツ谷」の項目を見ると、村内の「旧茶屋(もとちゃや)」と呼ばれる地に茶店が三戸あったことから、この地は「三ツ屋」と表記されていたが、今では「谷」の字が用いられていると書かれています。また別に、
この地に「谷」が三つあることから「三ツ谷」の名が付いたとする説もあります。
松雲寺は、三ツ谷新田内を縦断する東海道沿いに位置します。正保元年(一六四四)松雲院日明が構えた庵(
いおり)を前身とし、明暦二年(一六五六)に創建されたという日蓮宗寺院です。江戸時代、東海道を通行する尾張徳川家や紀伊徳川家が休息所として用い「寺本陣(てらほんじん)」と呼ばれていました。明治六年(一八七三)からは、境内に「三谷学舎(みつやがくしゃ)」(後の坂小学校)が開校しました。
▲松雲寺境内
明治十一年(一八七八)八月、明治天皇は一府十二県を巡る北陸・東海両道の行幸を催しました。馬車中心の移動であり、馬車が通れない場合は肩輿〈けんよ(肩に担ぐ輿)を用いたようです。右大臣岩倉具視(いわくらともみ)や参議兼大蔵卿(おおくらきょう)大隈重信(おおくましげのぶ)らが供奉(ぐぶ)員として従いました。京都から東京への復路で東海道各所を巡り、十一月七日に箱根越えをされています。そのとき、小憩所として用いられたのが松雲寺の「三谷学舎」でした。
時代はくだって昭和十六年(一九四一)十二月、松雲寺の境内が「明治天皇三ツ谷新田御小休所」として、ほかの明治天皇ゆかりの地とともに国史跡に指定されます。しかし戦後になると、これらの指定地は天皇制イデオロギーを支えるものと見なされ、GHQによって、いっせいに指定を解除されました。
現在、松雲寺の山門脇には「明治天皇史蹟記念碑」が建っており、明治天皇が目にされた風景に思いをはせることができます。この石碑は昭和三十八年(一九六三)に建立されたもので、宗祖日蓮聖人(にちれんしょうにん)の遠忌(おんき)法要にあわせ、十月十六日に除幕式が行われました。
▲明治天皇史蹟記念碑
【広報みしま 平成29年3月1日号掲載記事】
歴史の小箱(2016年度)
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