歴史の小箱
(第345号)源兵衛川と三四呂人形―水辺興談― (平成29年2月1日号)
三島の水を象徴する源兵衛川。遊歩道を散策すると、カワセミやトンボ、ホタルなど、四季の変化に出会うことができます。夏には、子どもたちが川の中に入り、サワガニや小魚などとたわむれています。
源兵衛川は60年ほど前まで、楽寿園小浜池を水源とし、大量の湧水がとうとうと流れていました。川辺で洗濯する女性も多く、洗濯物を離すと、あっという間に流されてしまうほど早かったそうです。
江戸時代から、東海道に面した各家はこの水の恵みを生かし、裏に水路を引いていました。水路の上に台所を作り、洗い物をし、細かいごみを流し、夏はスイカや残りご飯を入れたブリキ製のフネを浮かべ、冷蔵庫代わりにしていました。
写真の子どもは、人形作家野口三四郎(さんしろう)の甥たちです。写真家でもあった三四郎は大中島(現
在の本町)出身で、源兵衛川から上がってきた甥たちの楽しげな時間を撮影しています。昭和初期の写真です。
▲三四郎の甥たち
その姿は昭和11年(一九三六)三四郎の作品「水辺興談(すいへんきょうだん)」〈張子(はりこ)〉として結実し、第1回人形芸術院賞を受賞しました。これは日本で初めて創作人形に与えられた大きな賞で、翌年か
ら、日展人形部門となりました。この賞から、鹿児島寿蔵、堀柳女など後に人間国宝となる人形作家を生み出しています。その中で、最も将来を期待されていた三四郎は、翌年35歳の若さで亡くなってしまいました。
彼の名前からとった三四呂(みよろ)人形は、主に張子の技法を駆使し、子どもの世界を生き生きと愛らしく表現しています。今でも評価が高く、日本人の心の琴線に触れる素朴な人形は、三島の風土なくしては生まれることのなかった芸術作品です。
▲水辺興談
源兵衛川は、昭和30年代に周辺の開発や工業化などにより湧水量が減ったため、流量が激減し、汚れてしまった時期もありました。しかし、長年にわたる多くの市民や団体の努力と、「街中がせせらぎ事業」などの協働
事業によって、美しい流れを取り戻しました。
野口三四郎が亡くなった後、三四呂人形の製法は絶え、戦後にお土産として人気だった複製品も、やがて姿を消していきました。しかし昨年、三島商工会議所がお土産として三四呂人形の複製の開発に成功し、再び三四呂人形がよみがえろうとしています。
郷土資料館では、2月4日㈯~5月28日㈰企画展「三四呂人形―これまでと、これから―」で、「水辺興談」をはじめ、多くの三四呂人形、三島商工会議所での開発の様子を展示します。
【広報みしま 平成29年2月1日号掲載記事】
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