歴史の小箱
(第137号) ~農家の女性がいそしんだ~ 伊豆のハタゴ(織機) (平成11年10月1日号)

東本町の井上一雄さんは昭和40年代に伊豆のお年寄りをたずね歩き、機織について聞き取り調査をしています。明治生まれのおばあさん達は10代の頃に機織を覚え、家族の着物や布団【ふとん】生地を全て織り上げたといいます。 昔は一反の機を織れなくては嫁に行かれないと言われたものでした。
伊豆の農家では、初夏の頃綿の実をまき、秋につぼみが開いて綿があらわれ収穫します。摘み取られた綿はワタクリで実を除き、各家を訪れる綿打ち屋に頼み綿打ちします。これを「撚【よ】り子」に作り、夜遅くまで糸車をまわして糸を紡ぎました。こうして作られた手紡ぎ糸や、くず繭【まゆ】からとった糸は、「紺屋【こうや】」へ持っていき藍染めにしたり、各農家で草木を煎じて色糸に染められました。経【たて】糸は整経台【へだて】に縞柄に従って必要本数をはかりこれをハタゴの綜光【あや】と筬【おさ】に一本一本通していきます。この「したごしらえ」をして、やっと織り始めることができるのでした。
農家にはハタ部屋と呼ばれるハタゴ(織機)を置いてある部屋が設けられ、お嫁さん、おばあさんたちが織機にいそしんだものです。井上さんはおばあさん達から、機織の辛さと織り上げた喜びを聞いています。
写真は郷土資料館の二階に展示してあります。伊豆のハタゴです。伊豆の典型的なもので、縦糸を通す綜【あや】は木綿糸をからげたもので、現在ではこの綜かけができる人はいません。
大正から昭和初期にかけて、良質の繭(絹糸の原料)の需要が増し、三島で蚕を飼う農家は900件を超えていました。畑には桑が植えられ、この頃新築した農家の建物は、たいてい2階を蚕部屋として広く取っています。桑の葉を食べて脱皮を重ねた蚕が五齢になる頃には2階だけでは足りず、1階のザシキ、ヒロマの畳を上げ家中蚕棚でいっぱいになります。当時の三島の繭の収穫量は二千貫(約7.5トン)もありました。
三島市街には繭市場があり、初夏から秋にかけて田方一円からの繭の入荷でにぎわったものです。 (広報みしま 平成11年10月1日号掲載記事)
歴史の小箱(1999年度)
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