歴史の小箱
(第135号) ~江川坦庵公が考案した~ 韮山笠 (平成11年8月1日号)
三島市役所敷地の北東の隅に「農兵調練場跡」の碑が建っているのを知っていますか。
江戸時代の終わり文久3年(1863)に、ここ三島陣屋で韮山代官の指導の下、農兵の調練が行われた記念碑です。農兵は代官江川坦庵公が創案したもので、上層農民の子弟を集め洋式調練を実施したものです。武士以外の人々に軍事調練を施すことは当時としては画期的なことで、全国から見学者がひきもきらなかったといわれます。
この農兵達がかぶっていたのが「韮山笠」でした。考案したのは江川坦庵公といわれ、紙のこよりを編んだ笠に漆【うるし】をかけたものです。山野をかける時の便を考え水に強く、半分に折りたためるため、携帯に便利でした。幕末、韮山笠は農兵と共に全国に知られるようになりました。
韮山笠が再度注目されたのは昭和の初期のことです。三島の久保町(現在の中央町)出身の平井源太郎が、大々的に農兵節の宣伝を始めた時、韮山笠をかぶり、江川代官家から借用した陣羽織をはおり、「農兵節」と書いた幟【のぼり】を立てて、市内はもちろんのこと東京や名古屋まで出向いて農兵踊りを披露しました。時代めいたいでたちに、大衆の注目を大いに集めたと言われます。この時箱根西坂特産の大根の宣伝も行い、大阪市場への出荷を増やす貢献をしました。農兵節がレコード化されたのは昭和9年(1934)のことで、ラジオで放送されるようになると、全国にたちまち知れ渡ることになりました。農兵節を通じて三島の名を広く知らしめた平井源太郎は優れた広報マンといえるでしょう。
三嶋大社の夏祭りで農兵節パレードが踊られるようになるのは戦後のことですが、現在まで続くパレードで踊り手たちがかぶる笠は源太郎がかぶっていた韮山笠を模【も】したものです。
(広報みしま 平成11年8月1日号掲載記事)
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