歴史の小箱
(第130号) ~広重が描いた~ 三島の雪景色 (平成11年3月1日号)
初代の歌川広重は幾通りもの東海道五十三次を描いていますが、描かれた三島の中で、雪景色は「佐野喜版【さのきばん】」といわれるシリーズの一点だけです。この連作の特徴は、五十三次のどの場面にもかならず狂歌が入っていることです。
三島の雪景色には「今もなお夢路をたどる 心地かな はなと三島の 雪の曙」という歌が挿入されています。旅人の朝の出立風景を詠んだものでしょうか。
一枚の雪の風景から、いろいろな三島を想像してみました。中央右寄りに青い水の流れに架かる木の橋が見えます。「かん川」(現大場川)と新町橋でしょう。一面純白の雪景色の中に、一筋の青い川はひときわさわやかで、絵を引き立たせています。三島は水の町でした。町中には流れに架かるたくさんの石橋がありましたが、木の橋と言えば新町橋だけでしたから、想像通りだと思います。
と、すれば、流れの右側の斜面と二棟の家の屋根は箱根の坂にさしかかろうとするところに建つ民家でしょう。川原ヶ谷村(現三島市川原ヶ谷)の家だと思われます。対岸は三島宿の東の入口で新町の町並。当時ここには、侵入しようとする敵を防ぐための「枡形【ますがた】」など、宿場入口を象徴する諸設備が備わっていました。絵にはそれらしいものが見あたりませんが、人物が3人、また橋の上に数人がいます。旅人でしょうか。
ところで、三島宿は東の新町橋に始まり西の境川橋まで、東西全長一八町二〇間(およそ2キロメートル余)の宿場でした。この間に街道に沿って本陣(2軒)や脇本陣(3軒)、旅籠屋(74軒)などが軒を並べていました。因みに、江戸時代の記録として信用される「東海道宿村大概帳」(天保年間)によれば、三島宿の人口は4048人(男1929、女2119)で、総家数は1025軒、伊豆国君沢郡に属し、宿高はニ六三二石四斗ニ升九合でした。江戸から11番目、距離にしてニ八里ニ七町のところに位置するかなり知られた町であったようです。
さて、広重は何月頃を想定して描いたものでしょうか。三島の雪と言えば、たいてい早春の今頃なんですが。
(広報みしま 平成11年3月1日号掲載記事)
歴史の小箱(1998年度)
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