(第121号) ~三島ミカンの始まりか~ 沢地の「みかん苗木」 (平成10年6月1日号)

みかん苗木
 昭和32年の三島市の「畑作作付面積」(『三島市誌下巻』)を見ると、ミカンの作付面積は51反に過ぎず、当時最大の作付面積を誇っていた甘藷の4,201反に比べれば無いに等しいわずかな面積でした。

今回は、三島の栽培植物としては小さな領域しか占めないが、静岡県人としてはなじみの深いミカンについて、旧北上村沢地の史料「みかん苗木」(北上村沢地・下里定七文書)から考えてみました。史料年代は明治34年(1901)、まさに20世紀が始まったその年のことです。メモ帳形式の文書には、沢地や茶畑(現裾野市)の農家に分けたと思われるミカンの苗木及びカラタチの苗木の本数と値段が記されています。ミカンは本ミカン、早稲【わせ】ミカン、晩生【おくて】ミカンが分類されています。カラタチは、ミカンの苗木を接ぎ木で育てるための台木にするものでしょう。

 さて、明治のこの年が三島ミカンの始まりの年であるか否か。静岡や日本のミカンの歴史とともに眺めてみました。通称「蜜柑」と呼ばれて親しまれてきた温州蜜柑は江戸時代の初期に薩摩国出水郡長島郷で作られ、種なしで食べやすかったにもかかわらず、江戸時代には種のないことが理由で人々から忌み嫌われ、あまり普及しなかったと言われます。(『國史大辞典』)一般に広まったのは明治初期になってからだといいます。

 静岡県は茶とともにミカンの産地で知られています。駿河には徳川家康お手植えというミカンの原木伝承がいくつか残っていますが、温暖な気候とサトの山の傾斜地を利用して行われた温州蜜柑の栽培は明治後半になってからのことだと言われています。(『静岡県史』)

 また、江戸・享保年間には、長崎から江戸まで運ばれた象が箱根で体調を崩したが、クネンボを食べさせて元気を回復したという記録があります。九年母【くねんぼ】はミカン科の植物で、実は食用にされていました。箱根付近にはクネンボが作られていたということでしょう。

 沢地ミカンの栽培はこのような伝統の上に始まった近代農業の夜明けと言えるでしょう。
(広報みしま 平成10年6月1日号掲載記事)