歴史の小箱
(第125号) ~多宗派に及んだ~ 明治2年の宗門人別帳控 (平成10年10月1日号)
江戸時代、村々の戸口調査は、年々村役人から領主に報告されていた宗門人別帳がその役割を果たしていました。
名称には宗門人別改帳、宗旨人別帳、宗門改帳・家別帳など、地方や時代によって種々ありますが、もともとは江戸幕府がキリシタン禁止政策の重要な手段として始めた宗門改めと、戦国末期の人別改めが複合されて明治初年頃まで続けられてきた戸口報告制度でした。
写真の宗門人別帳は堅帳の表題に「豆州君澤郡壱町田邑【むら】」と記されているように、現在の壱町田の1869年(明治2年)の戸口です。
本文書は藩や代官などの領主に提出すべき書類ですから、本来は村に残るものではありません。したがって史料は提出後の村の控えということになります。宗門人別帳の提出は寺請制度が廃止となり、戸籍制度に変わる明治4年まで続けられていました。文書に記されている内容等を紹介しつつ、その形式を調べてみましょう。
表紙をめくると「禅宗福聚院旦那」(北田町)とあり、以下、戸主を先頭に一軒の家族構成が名前と年齢とで記され、押印がされ、末尾に〆【しめ】何人男何人女何人と家族の人数が記されます。また、その家の「高」(米の収穫高)も記されます。一連のまとめは「禅宗」の寺院が出尽くしたところで一区切りとされます。壱町田村の場合、禅宗寺院に属する家が多く、他に「心経寺」(大宮町)「耕月寺」(伊豆佐野)などが見え、一連末尾に高小計、家数小計、人数小計(男女別)が記され、各寺院の捺印署名入りの証明書が付されます。寺請制度と言われるように、村の戸口は各々が所属する寺(宗派別)によって管理されていましたから、上記のように各戸が提出した家族構成の小計を宗派ごとに集めて合計したものが村の全体数ということになります。
壱町田には、禅宗系のほか、法華宗の本覚寺(泉町)、光長寺(沼津市)、円明寺(芝本町)、浄土宗の誓願寺(北田町)、願成寺(川原ヶ谷)、浄土真宗の善教寺(加屋町)に属する家があるなど、実に多宗派に及んでいました。
(広報みしま 平成10年10月1日号掲載記事)
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