(第122号) ~三島宿の医家二代~ 宇野陶民【とうみん】、朗父子と『静窓自楽【せいそうじらく】』 (平成10年7月1日号)

静窓自楽【せいそうじらく】
 「梅咲くや立春大吉火之要慎【りっしゅんだいきちひのようじん】」

 これは、三島宿の医家でありながら漢籍【かんせき】に長じ、俳諧をもたしなんだ才人の宇野陶民翁の遺稿集『静窓自楽』に収められている一句です。春まだ浅い三嶋大社に詣でて詠んだ俳句です。多くの俳句を遺稿集に残している陶民翁ですが、この一句は、翁の遺稿を整理して編集した贄川他石【にえかわたせき】(明治地方俳諧の中心人物)が、もっとも注目した秀作だったといいます。

 陶民は文化11年(1814)三島宿に生まれ、17歳で単身江戸に出て漢籍を学び、その後幕府の侍医【じい】法眼小掘祐真【ほうげんこぼりゆうしん】の塾に入って外科術を修め、天保10年(1839)郷里に医業を開きます。医業だけでなく、書画、俳句などにも長じていたのは冒頭の通りですが、明治7年に60歳で生涯を閉じます。この、医者であり、文人であり、また何よりも実の父親だった陶民を継ぎ、医家として父にもまして成功したのが息子の朗博士でした。朗博士は、嘉永3年(1850)10月15日、伝馬町(三嶋大社の東)で代々の医者を業としていた家に生まれます。幼いころから才気にあふれ、近くで漢字塾を開いていた福井雪水に就いて漢学を修めます。

 明治3年(1870)、21歳の時に念願かなって東都に出ることができ、大学東校(東京大学医学部の前身)に入学します。明治8年に卒業、同校外科の助手として残り、その後は助教、付属病院外科副部長と進み、明治19年には大学令公布により帝国大学となった医科大学教授に任じられます。

 明治30年には大学教授の職を辞し、自らの力で、東京の下町浅草に「楽山堂【らくさんどう】病院」を開業します。目的は体得した医学を一般の民衆に施したい、国に奉仕したいという念願のためであり、病院の治療費も薬も低廉【ていれん】を旨とし、付近の開業医からは異議が出たほどだったといいます。

 晩年の朗博士は湘南(片瀬)の地に隠棲【いんせい】しますが、父陶民の50年忌(大正12年)に、父の遺稿を整理して『静窓自楽』と題して出版します。医家二代の父子は、いま、常林寺墓地に眠っています。
(広報みしま 平成10年7月1日号掲載記事)